坂本龍馬とは?

坂本家と北海道



坂本龍馬

言わずと知れた幕末の英雄

坂本龍馬

土佐藩‹現在の高知県›に生まれ、1858年(安政5年)1月に江戸修行中に北辰一刀流の千葉道場の北辰一刀流長刀兵法目録を授けられた。簡単に言うと免許皆伝の書です。かなり凄腕の剣士であったと伝えられていますが、平和主義な性格だった為か剣術での功績歴史の舞台からはみられません。

1861年には、幼馴染の武市半平太のもと土佐勤王党に龍馬は9番目、国元では筆頭として加盟した。

1862年(文久2年)3月24日に、土佐藩を脱藩する。この時、龍馬の行動が怪しいと兄の権平に刀を取り上げられていたのを 龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話があります。

その後、薩摩藩(現在の鹿児島)の出資により1865年(慶応元年)に亀山社中を結成した。これは今で言う株式会社みたいなもので、日本で初めての会社と言われております。

1866年(慶応2年)1月22日、薩摩側が西郷と小松、長州は桂が代表となり、龍馬が立会人となり、薩長同盟が結成された。盟約成立後も桂の薩摩に対する不信感は根強く、帰国途中で龍馬に盟約履行の裏書きを要求している。大きな藩同士の同盟にただの浪人が保証を与えたもので、彼がどれだけ信頼を得ていたかがわかります。
その翌日の1月23日は、あの有名な「寺田谷事件」が起きています。伏見奉行が龍馬を暗殺または捕まえようとした事件で、この時、後に結婚するお龍が外の異変に気づいて裸のまま龍馬を助けたと言うエピソードがあります。この時、百数十人に囲まれてたと言いますからお龍がいなかったら龍馬は死んでいたでしょう。

1867年(慶応3年)1月13日、土佐藩に脱藩を許された事をきっかけに、亀山社中を土佐藩の外郭団体的な組織とすることが決まり、4月上旬ごろに亀山社中は「海援隊」と改名した。
海運通商活動以外に、蝦夷地や竹島の開拓も構想をしていて、後年妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と語っている。

1867年6月9日に藩船「夕顔丸」で、長崎から兵庫に向かう途中「船中八策」を書き上げている。

  1. 政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべき事(大政奉還)
  2. 上下議政局を設け、議員を配置して政事を参照し、政事は公議を以て決定する事(議会開設)
  3. 有能な公卿諸侯その他の才人を顧問として官爵を賜い、従来の有名無実な官位は除くべき事(官制改革)
  4. 外国との交際は広く公議を採り、新たに至当な規約を成立せしむ事(条約改正
  5. 古来の律令を折衷し、新たに法典を撰する事(憲法制定)
  6. 海軍を拡張する事(海軍の創設)
  7. 御親兵の設置を以て帝都の守衛をなす事(陸軍の創設)
  8. 金銀物価は外国と均しく法を設ける事(通貨政策)

これは実質的に維新政府の原本的な役割を果たしている。

1867年11月15日「近江屋事件」で暗殺されてしまう。この時の犯人は未だに特定されておらず定説だけがのこされている。

坂本龍馬

龍馬の姉である千鶴の長男である「高松太郎」が龍馬を初代とした、坂本家を継いで「坂本 直」と改名している。

これほど活躍している坂本龍馬ですが、維新の後は忘れられていて、1883年(明治16年)高知の新聞で取り上げられて大評判になった事で有名になったそうです。その記事がなければ名前すら歴史から抹消されていたのでしょうか?
1891年(明治24年)に正4位が与えられています。ただの浪人だった坂本龍馬が朝廷の官位を貰えたのはやっぱり、偉業が認められたからですね

北海道との関係

上記でも記していますが、海援隊の活動の一環として蝦夷地(北海道)の開拓を志していました。この開拓に「障害の奉仕」と位置づけるほどの意気込みだったとか?浪士を集めて移住計画を試みていたけど、「池田屋事件」で計画が中止になり、その後暗殺されてしまい移住計画は夢と消え去ってしまいました。後に妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と語っていることから、本当にそういう計画があった事がわかります。